スポーツクラブと市営の施設

プールに通いたいからスポーツクラブに入会するという人もいるが、プールだけなら市営の施設で十分である。スポーツクラブは入会費や年会費などいろいろと料金が発生する。その分、遅い時間までやっていたり、シャワー施設などもキレイなので快適だろう。その点、市営の施設は劣る面も多いが、定期的に通えないならば、十分だろう。
サッカーユニフォームって原色が多いのか派手なイメージがあります。海外なんて特にそうですね。野球よりも激しく動きまわるからでしょうか。それともサッカー発祥の地の影響かな。でもサッカーユニフォームが地味だとつまらないと思ってしまうかもしれませんね。応援しているファンの人たちも、ユニフォームを着ていて楽しそうに見えます。
「死ぬまでデザイナーでいたい」と、おっしゃっていました――五十嵐久枝

 1986年から1991年まで、クラマタデザイン事務所に在籍していたインテリアデザイナーの五十嵐久枝さん。倉俣さんが亡くなるまでの約5年間、その背中を部下として見つめ続けてきた五十嵐さんに、当時の話を聞いた。

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――まず、五十嵐さんが倉俣さんの事務所に入社されたきっかけを教えてください。

 学校の先生の推薦でした。ちょうど私が桑沢デザイン研究所の研究科に在籍しているときに、先生からアルバイトの話がきました。実はそれが私には知らされない“面接”ということだったようです。アルバイト期間が2週間くらい終わるころに、倉俣さんから直接「事務所で働きませんか」といわれました。私はまったく予期せぬ話で、倉俣さんに憧れる学生は多く、自分のレベルではとても無理、入れるような事務所だとは思っていなかったので、本当に驚きました。倉俣さんは雲の上のデザイナーだと思っていましたから。

――それで、晴れて新卒で入社することになったわけですね。

 はい。ちょうど榎本文夫さんが退社されるタイミングだったので、榎本さんから少しでも多く学ぶようにと、1カ月間は榎本さんにはり付いてましたが、教えてもらいたくても「見て盗むもの」といわれるような状況でした。とにかく手探りで事務所にある過去の資料を調べながら、図面を起こしていくというような感じでした。当時は人手不足ということもあって、最初から物件を任されるような状況でしたね。

――当時の時代背景もあるのでしょうが、とても職人的な世界だと感じます。それは他の事務所とは違う、独自のやり方だったのでしょうか。

 他の事務所と比較はできませんが、職人的なところも多々ありましたね。スタイルが決まっていた訳ではないので、当時のスタッフによるところもあったと思います。

――五十嵐さんは、主にどんなお仕事を担当されたのでしょうか。

 最初は主に物販店、ISSEY MIYAKEの地方店を担当していて、全国各地の現場に出ることが多かったです。「OSB」という素材を使うようになった1988年ころから、飲食店の担当にもなりました。OSBは木のチップを固めたボードです。これは本来、建築部材の下地や梱包で使用される板ですが、倉俣さんはこの板に薄いパールピンクの染色塗装を施して独自のOSBの表情を生み出しました。

 福岡にあるホテル、イル・パラッツオ内のBar「オブローモフ」や長野のレストラン「ファイブ・フォルン」、静岡のバー「COMBRE(コンブレ)」と代表作にも使用しています。COMBREでは、一部の床、壁、天井、テーブルにまでOSBを使い、1つの素材の世界ができ上がりました。木とはまた違った、石のような美しく魅力的な表情です。

 建築やインテリアで使う素材には規格サイズがあります。どうしてもデザインがそのサイズの制約を受けることになります。倉俣さんのイメージする壁や天井を「1枚で作りたい」という願望は、現実的にそういう素材では表現に限界がありました。

 このOSBという素材は、現場で板同士を突きつけ、表面を削って継ぎ目がほとんど分からなくなり1枚のように見せることに行き着きました。OSBは倉俣さんのイメージを具現化する可能性を秘めていたと思います。

――倉俣さんは、新しい素材に対して、つねに積極的だったのでしょうか。

 もちろん、常に何か新しい素材に関心があったと思います。意外なところからの発見もあります。カラーアルマイト加工と呼ばれる色付けされたアルミ染色のパイプも、突然きれいなペンを持ってこられて、それをサンプルにカラーアルマイトの試作作りが始まりました。

 ペンと同じ仕上げは小さなサイズでは可能でも、サイズが大きくなるとできないことはよくあることで、まずは作れる工場探しから始まります。当時の事務所には、素材の調査・開発を専門に担当する者がいました。「ミス・ブランチ」をつくるときも工場にはり付いていました。1970年代からアクリルの家具はいろいろとつくられていましたが、「ミス・ブランチ」はまた違う初めてトライアルがあり、制作は難しかったと思います。

 「ミス・ブランチ」は最初にサンプルをつくったときに、薔薇が押し潰されたようになってしまいました。バラが舞う瞬間をうまく表現するにはどうしたらいいのかということを、工場の人たちと試行錯誤を繰り返し、さらにカットや磨きなどの加工も簡単ではなく、いくつもの工場を渡って完成させていきました。

――イメージを具現化するために、現場では並々ならぬ努力が重ねられていたわけですね。

 倉俣さんはデザイナーですから、最終的には誰かの手に委ねてつくることになるので、信頼できる職人や周りの人達をとても大切に考えていました。私にはリアルなものに接し、職人から教わることを勧めてくださいましたね。日の明るいうちは現場や工場に通い、図面を描き始めるのはいつも暗くなってからでした。

 倉俣さんは、今までにないものをデザインし続けたいという願望がありましたので、考え続け、妥協できなかった。お店や家具ができ上がったときはつかの間のよろこびを味わい、また翌日からは次のプロジェクトに向かう。その繰り返し、とどまることがありませんでした。

――21世紀の今、倉俣氏が活躍していたら、どんなことをなさってると思いますか?

 同じことをやっているということはないと思います。例えば、同じアクリルという素材を使うにしても、違うステージにいると思いますね。いつも前へという姿勢でした。一歩後退することはあったとしても「停まる」ということは選べない「死ぬまでデザイナーでいたい」と、おっしゃっていましたから。

――生前の倉俣さんがお話しされていた構想で、何か覚えていらっしゃることはありますか。

 「映画を作りたい」と聞いていました。「1冊の本と1本の映画をつくりたい」と。そのためのスケッチを何枚も楽しんで描かれていました。不思議なサイが登場するスケッチを、よく見せてもらいました。思えば、私が学生のときに講義で初めて倉俣さんに会ったときに、「映画は見た方がいい」という話をしていたのを覚えています。フェリーニやブニュエル、タルコフスキーの話をしたと思います。倉俣さんのデザインは映像のようでもあります。

――今の映像技術だったら、相当いろいろなことができたでしょうね。

 コンピュータについても、興味を持たれていました。今の進歩を見ても驚かないかもしれません。

●PROFILE:五十嵐久枝
インテリアデザイナー。東京生まれ。1986〜91年、クラマタデザイン事務所在籍。1993年、イガラシデザインスタジオ設立。商業空間デザインから、インスタレーション、家具、プロダクト、遊具などの開発を手掛け、携わる領域は「衣・食・住・育」と広がり、現在形のデザインを探求している。武蔵野美術大学教授。

【草野恵子,エキサイトイズム】
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