IDカードとは、会社や組織の中で自分が誰なのかはっきりと身元を証明するカードのことをいいます。ときにはクレジットカードがIDカードとして機能することもあります。特に海外のホテルなどでは、身元証明として、キャッシュで支払う場合でもクレジットカードの提示を求められることがあります。そのため、自分のカードであるという証明になるので顔写真が入れられるクレジットカードもあります。
クレジットカード払いにこだわるのは良いが、相手を見てクレジットカードを利用するかどうか決めるべきであると思う。自分は、クレジットカードの使い方にも礼儀があると思う。もしも、そのお店にお世話になっていたり、しかもそのお店の店主と親しかったりしたら、それはクレジットカードを利用するべきではない。現金がありがたいのだ。
午前7時45分、長浜博行官房副長官、手塚仁雄首相補佐官が公邸に入った。
午前9時5分、長浜氏が出た。同11分、手塚氏が出た。
午前9時39分、公邸発。同42分、国会着。同43分、参院議長室へ。同49分、同室を出て参院議長応接室へ。同57分、同室を出て参院本会議場へ。同10時1分、参院本会議開会。
午前11時29分、参院本会議休憩。同30分、参院本会議場を出て、同35分、国会発。同37分、官邸着。同38分、執務室へ。
午前11時54分、執務室を出て首相会議室へ。午後0時14分、同室を出て執務室へ。
午後0時32分から同37分まで、藤井裕久民主党税制調査会長。同46分、執務室を出て、同47分、官邸発。同49分、国会着。同51分、参院議長応接室へ。同57分、同室を出て参院本会議場へ。同1時1分、参院本会議再開。
午後3時32分、参院本会議を途中退席し、同33分、参院本会議場を出て、同35分、衆院第1委員室へ。同42分、衆院予算委員会開会。同47分、同委員会散会。同48分、同室を出て、同50分、参院第1委員会室へ。同51分、参院予算委員会開会。同56分、同委員会散会。同57分、同室を出て議員共用会議室へ。同58分から同4時5分まで、衛藤征士郎衆院副議長。同6分、同室を出て、同7分、国会発。同10分、官邸着。同11分、執務室へ。同12分から同20分まで、岡田克也民主党前幹事長。同21分、執務室を出て特別応接室へ。同22分から28分まで、福島県富岡町議会による要望。同29分、同室を出て執務室へ。同36分、政府・民主三役会議開始。
午後5時32分、同会議終了。同33分から同42分まで、輿石東民主党幹事長。
午後5時43分から同45分まで、小松一郎駐仏大使。
午後5時57分、古川元久国家戦略担当相が入った。
午後6時21分、古川氏が出た。
午後6時25分から同30分まで、手塚首相補佐官。同31分、執務室を出て、同32分から同33分まで、官邸エントランスで報道各社のインタビュー。「G20でどのような姿勢を示したいか」に「欧州発の世界経済危機にならないように、先進国と途上国が議論をして知恵を出し合っていく中で、積極的に関わっていく」。同34分、官邸発。
午後6時55分、羽田空港着。
午後7時17分、主要20カ国・地域(G20)首脳会議に出席するため、政府専用機でフランスに向け同空港発。(了)
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【父の教え】
自らの少年時代をつづり、ベストセラーになった『少年H』。父、盛夫さんはHの良き理解者として描かれている。戦時中でも「なんで?」「なんで?」と繰り返すHを決して邪険にせず、「今、そんなことを外でいうたらあかんよ」と答える。「あんたのこと信じてる」と見守った姿が多くの読者に感銘を与えた。
舞台美術家で作家としても知られる妹尾河童さん(81)は「あの人のおかげで悪ガキがワルにならずにすんだと思っている」と振り返る。
盛夫さんは洋服の仕立て職人だった。子供の頃、郷里の広島ではほとんどの人々が着物で生活。時代は明治から大正へ。学校の校長や医者ら一部の人が洋服を着始めていた。それを見た盛夫さんは「これからはみんな洋服を着る時代になる」とひらめき、神戸での奉公を決めたという。「時代を見る目があったと思う」と、河童さんはほほ笑む。
その頃(大正7年頃)の神戸は、外国人の居留地整備とともに外国の文化が流れ込み、それを学ぶために若者が地方から集まり活気にあふれていた。もし、盛夫さんが活路を見いだしたのが神戸ではなかったら「少年Hはいなかった」と河童さんは言う。「新しいものを求め、自分のものにする。『とりあえずやってみよう。あかんかったらやめよう』というのが神戸。自由と進取の気性があったね」
盛夫さんはその後、奉公先から独立し、神戸・長田に「妹尾洋服店」を構える。「神戸の西の端で商売には不向きだったけれど、お客さんの所へ出張していって洋服を作った。その人の体形に合わせてきっちり作るから、日本人と体格の違う外国人には喜ばれてね。顧客がたくさんいました」。寡黙ながら「その人に合ったものを」との思いが、顧客の信頼を集めていた。
盛夫さんが顧客を訪ねる際、河童さんは一緒についていき、外国人家庭の様子をのぞいていた。河童さんはこの経験を通して、考え方や文化の違う人の存在を知ることができたという。
15歳で郷里の広島から神戸へ出た盛夫さんは、85歳で亡くなるまで神戸に住み続けた。「神戸にいないと服作りのスキルが生かせない」との思いからだったという。戦時中は洋服が作れなくなったため、消防手として働いていたが、ひそかに修繕などの仕事を引き受けて洋服作りを続けた。戦後は、他の洋服店の下請けとして働いた。生涯、服作りにかけていた。
一本気に生きた父の姿を「自分が大人になっても尊敬し続けられる父親だった」と話す。「おやじは今の時代に生きていなくてよかったな。スーツが1着1万円なんかで売っているのを見るのは嫌だったと思うな」
父を思いやる河童さんのまなざしは少年Hそのままだった。(佐々木詩)
≪メッセージ≫
ありがとう。学ぶことが多かった。
【プロフィル】妹尾盛夫
せのお・もりお 明治35年、広島県生まれ。15歳で神戸に移り、洋服の仕立てを学ぶ。洋装店を営んでいたが、第二次世界大戦中、仕立てが困難になり消防手として勤めた。85歳で死去。
【プロフィル】妹尾河童
せのお・かっぱ 昭和5年、神戸市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、舞台美術家として演劇、オペラ、ミュージカルと幅広く活躍。『河童が覗(のぞ)いたヨーロッパ』などエッセーの著作も多く、自らの少年期を描いた『少年H』は上下巻合わせて300万部を突破するベストセラー。
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